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第57話 閉ざされた部屋

last update Veröffentlichungsdatum: 22.10.2026 18:00:22

 自動車が停まったのは、どれほど走った後だっただろうか。

 帝都の賑わいはとうに遠ざかり、車窓には鬱蒼とした木立と、ところどころに古びた塀が見えるばかりである。

「降りろ」

 隣の男に促され、麗香は恐る恐る車外へ足を下ろした。

 目の前に建っていたのは、蔦の絡まる古い洋館だった。石造りの玄関には凝った彫刻が施されていたが、庭は荒れ、窓硝子にも薄く埃が積もっている。

 麗香は両腕を掴まれたまま玄関を通され、薄暗い廊下を進んだ。磨かれることのなくなった床板が足音を鈍く響かせ、閉め切られた屋敷には、古い木材と湿気の匂いが籠もっている。

 二階の一室へ押し込まれると、背後で扉が閉まり、鍵の回る音がした。

 室内には寝台と小さな卓、椅子が一脚あるだけで、壁には色褪せた風景画が掛かっている。窓は固く閉ざされ、外側には鉄の格子が嵌められていた。

 見下ろせば、荒れた庭の向こうに高い塀が続いている。

「……朔様」

 小さく呟いた途端、胸の奥から恐怖が

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     御影朔のもとに凶報が届いたのは、午後の軍務が一段落した頃だった。 執務室の扉を叩いた部下は、常になく青ざめた顔をしていた。「閣下。御影邸より、至急のお知らせがございます」 差し出された電報に目を通した朔は、しばし言葉を失った。 妻の麗香が、外出先へ向かう途中で何者かに襲われ、連れ去られたというのである。「……詳しい状況は」「護衛の者は負傷しておりますが、命に別状はないとのことです。奥様に付き添っていた侍女も無事で、現在は警察が現場を調べております」「車を出せ」 朔は書面を机に置いた。 今すぐにでも飛び出したい衝動を、辛うじて押し殺す。怒りも焦燥も、今は何の役にも立たない。まずは現場へ向かい、何が起こったのかを確かめなければならなかった。 軍帽を手に取り、朔は足早に執務室を後にした。◇ 襲撃現場には、既に警察官たちが集まっていた。 道端には、犯人たちが置き去りにした荷車が残されている。朔は現場を一瞥すると、警察の担当者から説明を受け、続いて護衛と志乃のもとへ向かった。「旦那様……!」 朔の姿を認めるなり、志乃は深々と頭を下げた。「申し訳ございません。私がお傍にいながら、奥様をお守りできず……」 その額には包帯が巻かれ、頬にも擦り傷があった。「お前が謝ることではない」 朔は短く答えた。「麗香は、何か言っていたか」「はい……。奥様は、ご自分が連れていかれようとしているのに、私どもの怪我を案じてくださって……」 志乃は堪えきれず、声を詰まらせた。「どうか、この者たちには手を出さないでほしいと……そう仰っておられました」「……そうか」 朔は目を伏せた。 彼女らしい。 自分が危険に晒され

  • 無香は朔夜に薫る ―妹が婚約者を寝取った夜、私は冷血軍神の「運命の番」に刻まれた―   第57話 閉ざされた部屋

     自動車が停まったのは、どれほど走った後だっただろうか。 帝都の賑わいはとうに遠ざかり、車窓には鬱蒼とした木立と、ところどころに古びた塀が見えるばかりである。「降りろ」 隣の男に促され、麗香は恐る恐る車外へ足を下ろした。 目の前に建っていたのは、蔦の絡まる古い洋館だった。石造りの玄関には凝った彫刻が施されていたが、庭は荒れ、窓硝子にも薄く埃が積もっている。 麗香は両腕を掴まれたまま玄関を通され、薄暗い廊下を進んだ。磨かれることのなくなった床板が足音を鈍く響かせ、閉め切られた屋敷には、古い木材と湿気の匂いが籠もっている。 二階の一室へ押し込まれると、背後で扉が閉まり、鍵の回る音がした。 室内には寝台と小さな卓、椅子が一脚あるだけで、壁には色褪せた風景画が掛かっている。窓は固く閉ざされ、外側には鉄の格子が嵌められていた。 見下ろせば、荒れた庭の向こうに高い塀が続いている。「……朔様」 小さく呟いた途端、胸の奥から恐怖が込み上げてきた。 自分が約束の時刻になっても帰らなければ、きっと心配するに違いない。けれど、あの道端に残された志乃たちが無事でなければ、何が起こったのかを知らせることさえできないかもしれない。 麗香は胸元へ手を当てた。震えが止まらなかった。◇ やがて現れたのは、麗香を連れ去った男たちとは異なる、洋装の中年紳士だった。灰色の背広を隙なく着こなし、髪を丁寧に撫でつけたその姿は、街中ですれ違えば、どこかの官吏か実業家と思ったことだろう。「御影夫人。突然のお招きとなりましたこと、まずはお詫び申し上げます」 男は慇懃に頭を下げた。「……お招き、と仰るのですか」「ええ。少々、お話を伺いたいことがございまして」「でしたら、なぜこのようなことをなさるのでしょう。わたくしの侍女も、護衛の方も、怪我をなさったのです」「それについては、手違いがあったようですな」 男は悪びれもせず、椅子を引いた。「どうぞ、お掛け

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     桐生家を訪ねた日の夜、麗香は寝室の窓辺に腰を下ろし、母の遺品である銀の簪を眺めていた。 昼間、父から受け取った桐の箱は、今は化粧台の上に置かれている。長い年月を経てもなお、簪に彫られた桜の花は繊細な輝きを失っておらず、灯火に照らされた銀の花弁は、まるで春の夜に咲く本物の桜のように見えた。 幼い頃、母がこれを髪に挿していた姿を覚えている。けれど、その裏側に紋章が刻まれていることなど、今日まで知らなかった。「……お母様」 麗香は小さく呟き、簪を掌に載せた。 父との対話を思い返せば、胸の奥には今も複雑な思いが残っている。母について何も知らないと言いながら、何かを隠しているようにも見えた父。 幼い頃から、その言葉に逆らうことなど考えもしなかった自分が、今日は初めて、はっきりと己の意思を告げることができた。 それが正しかったのかどうか、麗香にはまだ分からない。「……まだ起きていたのか」 背後から声がして振り返ると、寝間着に着替えた朔が立っていた。「朔様」「簪を見ていたのか」「はい。母のことを、少し思い出しておりました」 朔は麗香の傍らへ歩み寄り、簪へ目を落とした。「今日のことが、気になっているのか」「……はい。お父様に、あのようなことを申し上げたのは初めてでしたから」「後悔しているのか」 麗香は少し考えてから、静かに首を振った。「いいえ。ただ、私にもあのように言える日が来るのだと、不思議な気持ちがいたします」「お前は、何も間違ったことを言っていない」 朔はそう言って、麗香の隣に腰を下ろした。「母親のことを知りたいと願うのは、当然のことだ。それを誰かに許してもらう必要はない」「……ありがとうございます」 麗香は微笑んだ。「朔様がご一緒にいてくださったからこそ、勇気を出せたのだと思います」

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